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百人一首に登場!漫画にもなった『ちはやふる』の意味について

百人一首が登場する『ちはやふる』という作品があります。これは末次由紀原作の漫画であり、アニメや実写映画化もされている物語です。競技かるたに熱中する少女の物語であり、実際の競技かるたが広く浸透するきっかけにもなりました。

作品のタイトルは『ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは』という百人一首の中の選歌が由来しています。“ちはやふる”とは『勢いの強いさま』という意味であり、主人公がそれを知り表現していく物語なのだと、作者は語っているのです。

“ちはやふる”という言葉については、『いちはやぶ』という荒々しく振舞うことを意味する動詞から派生したとされています。『時代別国語大辞典 上代編』によると、『勢いある、強暴な、あらあらしい、連体修飾語の例のみ』としていて、万葉集や古事記の例が挙げられているのです。

“ちはやふる”は、枕詞として使われることが多いです。要するに、意味もしくは音に関してある言葉を導き出す言葉が、枕詞となります。それに加えて、枕詞よりも文字数が多く同じような働きをするものを、序詞というのも覚えておきましょう。

“ちはやふる”という言葉の場合は、『神』という言葉を導き出す枕詞として万葉集でも使われていることが多いです。例えば『玉葛 実不レ成樹尓波 千磐破 神曾著常云 不レ成樹別尓』が原文であり、『玉葛(たまかずら) 実成らぬ木には ちはやぶる 神そつくといふ 成らぬ木ごとに』が読み下しです。

訳は、『(玉葛) 実のならない木には (ちはやぶる) 神がとりつくそうです 実の成らない木ごとに』となります。『ちはやぶる』の説明については、古代の神々の中には悪霊妖怪の類もあり、それらが凶暴かつ残忍に振舞い人の生活さえも脅かすこともあったため、かけたのだという話もあるのです。

“ちはやぶる”は元は荒々しいという意味の言葉だったものの、時として人に脅威をもたらすような怖い神たちを連想させることから、いつの間にか『神』を導き出す枕詞へとなりました。

“ちはやふる”は勢いが激しいことや荒ぶるといった意味があると説明しましたが、どちらも勢いの強さを表現してはいるものの、性質が違う点を知っておきましょう。荒ぶるというのは乱暴さが感じられて安定しない力ですが、“ちはやぶる”だと勢いが1点だけに集中している状態となっています。

また、“ちはやふる”と”ちはやぶる”のどちらが正しいのかと疑問に思う方もいるかもしれません。これについては、どちらも正しいというのが答えでしょう。歌が詠まれた平安時代には濁点が使われなかったので、”ふる”と書き”ぶる”と読んでいたと考えられます。

それもあってか、今でも”ぶる”と書かれているケースがありますが、それでも問題はないということです。『ちはやふる』の作者によると、”ふる”の方が細胞の揺らめきのような繊細な感じを受けるし、見た目も響きも可愛いといった趣旨のことを話しています。

それに、子供が初めて札を見ても”ぶる”とは読まないという理由から、”ちはやふる”というタイトルになったのでした。

検証!百人一首が普及していった謎を解き明かそう

百人一首は、成立に関して色々と謎がありますが、百人一首が普及していったのは宗祇(そうぎ)という室町時代の連歌師が重要な役割を担ったとされています。百人一首の選者である藤原定家の家は代々受け継がれてきた和歌の名門であり、『御子左家』と呼ばれました。

ところが、この『御子左家』は藤原定家の息子である為家の次の代で、冷泉家や京極家、二条家の三家に分裂してしまったのです。東胤行(とうたねゆき)という人が藤原為家に和歌を習って、その娘婿(要するに為家の娘の婿)になり二条流の歌人として知られたものの、宗祇は東胤行の子孫の東常縁(とうつねより)百人一首を伝授されました。

宗祇の頃には二条家は断絶してしまいましたが、国文学者である吉海直人によると、宗祇は二条家の系譜に繋がる東常縁から教えられたことを自分の権威となるようにし、その道筋において百人一首を要するに二条家に伝わる聖典のような位置づけにまで上昇させたという見解を示しています。

宗祇は、自身の弟子たちに百人一首について講義をして伝えていきました。それと時を同じくして、百人一首は『三部抄』に収録されます。これは二条流歌道の入門書でした。このことで、百人一首は和歌の入門書ということで広く知られていくようになったのです。

そして百人一首は、どの様な過程を経てかるたになったのかも気になるところではないでしょうか。それについて吉海直人は、はじめのうちはゲームというのではなく、和歌の暗記カードもしくはただ見るためだけのものであった可能性があるとしています。

和歌の入門書であった百人一首が和歌を暗記するためのカードとなりかるたへと変化した、というのはあり得ることであり、面白みがあるでしょう。それに吉海直人は、江戸時代の寺子屋で読み書きの教科書として百人一首を使っていた点にも着目していて、女性の教養となっていたことで、かるた取りの遊びとして広まったのではないかと推測しています。

藤原定家が百人一首を選んだ京都の嵯峨野の場には、現在歌碑が建てられています。それには『権中納言 定家 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ』と書かれています。

この歌碑は、『時雨殿』という百人一首のバラエティに富んだ世界観を味わうことができるミュージアムに屋外展示施設として建ったものです。最近では百人一首に興味を持つ若い世代の方も増えているようですので、こうした場所を訪れてみるのも一案かもしれません。

ちなみに、平成14年度における小倉百人一首の普及具合は、全日本かるた協会会員名簿によると理事を含め2153名となっています。その数値は、前年の平成13年よりも29名増加しているのです。

戦前より中心として栄えてきた東京都は、会員数が最も多く423名となっています。西側の中心として競技者を多く輩出していた大阪の場合は、全国の中で5番目の137名でした。2位は福井県で3位は静岡県だったのです。

そうだったの?百人一首に『小倉』が冠される理由について

百人一首に『小倉』がついた理由を見ていきましょう。小倉というと『あんこ』を思い浮かべる方もいるでしょう。あんことかるたの関連性について不思議に思うこともあるかもしれません。これについては、こしあんに蜂蜜漬けとなった小豆を混ぜたものが、鹿の子まだら模様に見えるので、鹿から紅葉が連想されて、それに加えて小倉山が紅葉の名所ということもあり『小倉あん』という名がついたとされています。

百人一首には『奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき』という歌があります。この様に、鹿と紅葉は関連性があるのです。さらに『小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆき待たなむ』という歌も存在し紅葉と小倉山の接点も分かるでしょう。

百人一首は京都嵯峨野にある宇都宮頼綱の別荘の襖を飾るために、藤原定家に選ばせたとされていることは他の記事でご紹介しています。百人一首が誕生した当時は一定の呼び方はされておらず、『小倉山荘色紙和歌』や『嵯峨山荘色紙和歌』、『小倉色紙』などと呼ばれていました。

後になって、藤原定家が前述の小倉山で百人一首を編纂したことで、『小倉百人一首』という呼び方も定着していったのです。藤原定家が宇都宮頼綱に送った小倉色紙は、一部が宇都宮頼綱の子孫に受け継がれたとされています。

室町時代に茶道が広まったということで、小倉色紙を飾ることが流行り、貴重なものとされたのでした。戦国時代の武将である城井鎮房が豊臣秀吉の配下である黒田長政されて一族が滅ぼされます。

それは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わっていた『小倉色紙』を提出することを秀吉に求められた際に、それを拒否した点も要因に含まれるという話があるのです。この小倉色紙は、大変に貴重なものとされたことから価格もはねあがったのでした。

そうしたこともあり、ニセモノも多く出回ったとされています。要するに、宇都宮頼綱の持っていた小倉山にある別荘で藤原定家が百人一首の百首を選んだために、その『小倉山』からとって『小倉百人一首』という名称で呼ばれるようになったということです。

ですので、公家である宇都宮頼綱の個人的な一存により藤原定家が編纂し、後世にまでかるたとして残り、今でも親しまれていることになります。このことは、天国の宇都宮頼綱も編纂を依頼された藤原定家だって当時は思いもしなかったのではないでしょうか。

余談ですが、藤原定家は平安時代だった1162年に、歌人の藤原俊成の次男として生まれています。子供の頃から和歌の教育を受け育ったのでした。青年期には源平合戦(本物の戦の)を経験していますが、和歌の創作に打ち込んでいます。

歌を詠む人であれば穏やかな人なのだろうと想像するかもしれませんが、藤原定家の場合は激しい気性の持ち主であったと考えられ、若い頃には自身を侮辱してきた公家を殴ったという逸話もあるのです。

和歌に対しては妥協せずに、技巧を凝らした難解な和歌が多いとされています。

なぜ?百人一首は誰が何の理由で作ったのか

百人一首は藤原定家が宇都宮頼綱(定家の息子の妻の父親)に頼まれて歌を選んだ和歌集であることは、他の記事でもご紹介しています。百人一首の中で代表的な小倉百人一首は、後世になってから『小倉百人一首』と呼ばれるようになりました。

その前は『小倉山荘色紙和歌』と呼ばれていたのです。『小倉山荘』とは宇都宮頼綱の別荘を指します。また『色紙和歌』となっていますので、この百人一首は小倉山荘の襖を和歌の色紙で飾ることを目的として、藤原定家が依頼されたのです。

しかし、小倉山荘で歌を選んだという点に疑問を投げかける声もあります。藤原定家の『明月記』という日記に書かれている通り、宇都宮頼綱に頼まれ色紙を書いて送ったことは確かではあるものの、その前には帰京をしているためそうではなく京都にある自身の家で藤原定家は清書をした可能性が大いにあるとする意見もあるということです。

『小倉』という言葉が名前につくようになった点については、後世になり『新百人一首』や『後撰百人一首』といった数々の百人一首のパロディが生まれたことで、そういったものと区別する必要が出たためという点には、異議は唱えられていません。

『小倉』という言葉が百人一首につけられるようになった理由は、他の記事で詳細を紹介していきます。百人一首が成立するには、『百人秀歌』という歌集が関わっているとする見方があるのを知っているでしょうか。

これは国文学者の有吉保によって昭和29年に発見された歌集となっていて、101首の和歌が収録されています。その中の97首が百人一首にも選ばれているのです。有吉保は、藤原定家が『明月記』に書いた文暦2年5月27日の記述に即して、宇都宮頼綱の別荘の障子に貼るために、藤原定家に選歌を頼んでこの際に定家が選んだ歌の手控えもしくは目録ということで清書されたのが、『百人秀歌』になったという見解を示しています。

それから、後鳥羽院が崩御した延応元年(1239年)から藤原定家が亡くなる仁治二年(1241年)までの間に、後鳥羽院や順徳院の『百人秀歌』に収録されていなかった歌が加わる等の改編を経て『百人一首』になったと有吉保は考えているのです。

余談になりますが、藤原定家が依頼を受けて書いた色紙を『小倉山荘色紙』もしくは『小倉色紙』と言われます。色紙は大体縦が18センチで横が16センチ程度であり、現在も藤田美術館等に分けて所蔵中です。

さらに、百人一首がいつ誰がどの様にして選んだのかという点については、解説本に載っているでしょう。このことはとても大事ですし、知っておくことも必要となります。それでも、大まかな部分は良いとしても細かい部分は色々な説があり、今でも定説はないとされているのです。

百人一首を楽しむだけであれば、細かいところは気にせずに大まかな部分のみ把握しておくのも気楽かもしれません。百人一首は、作られた背景を知りながらそのうえで気軽に楽しむのが一番だということです。

いつから?百人一首の歴史を紐解いてみよう

百人一首の歴史はかるたから始まるとされていて、かるた自体は平安時代に遊ばれていた『貝合わせ』が始まりだとされています。『貝合わせ』というのは、二枚貝を2つに分けてその片方を探すという遊びです。

これがいつしか、宮廷の人たちの間で貝に絵や歌を書いて遊ぶものとなりました。これを『歌合せ』と言い、様々な貝に添えて歌を詠みその和歌を競うというものだったのです。その後それに似た、絵合わせをする『貝おおい』という遊びが進化していき、『歌貝』に発展しています。

『歌貝』においては、貝の形をした札が上の句と下の句の100枚あって、今のかるた取りと同様に下の句の札を並べ、上の句を詠み下の句を取るという遊びです。この遊び方については、百人一首の歴史から考えると非常に現代の遊び方に近いと考えられます。

『百人一首』という名がついたのは、室町時代とされています。そして歴史が流れて戦国時代ともなると、百人一首はかるたとして遊ばれるようになりました。しかし、はじめのうちは宮中もしくは大名屋敷の大奥等で行われるようになって、年間行事となったとされています。

この頃のかるたは、まだ庶民にとってはあまり馴染みがないものでしたが、江戸時代になってからは木版画の技術が発展したことや、南蛮からやってきたかるたを取り入れることで、段々と庶民の中にも浸透してきたのです。

それから『民用小倉百人一首』等が出版となり、元禄時代より一般庶民の間にも広まっていって小倉百人一首が和歌かるたの代名詞のようにも言われるようになり、庶民にとっても馴染み深いものとなっていきました。

上記のように百人一首の歴史は古いものの、正月に家庭で小倉百人一首を楽しむようになったのは、後になってからの安政の頃からなのです。それでも今では、正月だけでなく簡単に遊ぶことのできるゲームとして親しまれています。

それに日本の古典の歴史の風情を学ぶことにも馴染みやすいですし、そうした際の資料としても身近となっているでしょう。またこの頃では、小倉百人一首の応用である『五色百人一首』も現れて、小学生や中学生に親しまれているほかに、簡単に遊べる『坊主めくり』もあるので百人一首ファンも多くなっています。

ちなみに、百人もの歌人の歌を一首ずつ選ぶことをしたのは、他の記事でもご紹介したように藤原定家が宇都宮頼綱に依頼されたのが由来です。それに歌を選ぶだけでなく別荘に飾りたいので色紙などに字を書いて欲しいとまで言われたため、藤原定家は自分はさほど字が上手ではないと言ったとされています。

それでも押されてしまい、藤原定家は色紙にも字を書くことを約束したのでした。藤原定家は『百人秀歌』という歌集も制作していて、これが百人一首の元となったという見方があります。

ただ『一首』を修正したのが『秀歌』であるとする声もあり、明確にはなっていません。優れた歌を選ぶという意味では、百人一首には駄作が多いとされており、一首と秀歌の同じ面や違うところから暗号が隠されているのかもしれないとする人もいます。

まるで戦?百人一首の『源平合戦』のやり方とは

百人一首の『源平合戦』は2組に分かれチーム戦で行うのが特徴です。学校でも多く行われているため、知っている方も多いかもしれません。1チームで50枚ずつ札を持って、先に札がなくなったチームの勝利となります。

ちなみに、お手付きにはペナルティが課されるでしょう。取り札を50枚ずつに分けて1チームの持ち札として、3列自身の方向に向け並べます。読み手も必要であり、読み手は読み札を上の句から読んでいきます。

参加者は、読まれた札を取っていきましょう。自陣にある札を取った場合は、そのまま自身の札として、相手の陣地にあった札を取ったなら自陣の札を1枚選び相手に渡します。これを送り札というのです。

自陣と敵陣いずれにしても、お手付きで誤った札に触れた場合には相手より1枚札を取らなければいけません。これが、先ほど話したペナルティです。有利なのは歌人の名前や歌を覚えていることですが、場の取り札がどういった場所にあるかを覚えておくことや、好きな札を前もって確認しておくのも一案となります。

源平合戦の場合は、ちらし取りなどと異なり自身の陣地にある札は好きなように動かせるのです。そのため、覚えている歌があったなら上手に札を並べて読まれたならすかさず取れるように工夫することも可能となります。

とはいえ、取り札を『あいうえお』の順に並べたりすると、相手にもすぐに分かってしまう可能性があるため、もし並べるとすれば下の句の二文字目で『あいうえお』の順に並べたり、並べるのを季節ごとにするなど相手が分からないようにするのがコツです。

それに、源平合戦は読み手も含め3人以上から楽しめるものですが、2人ずつでチーム分けして5人以上で行うのも1つの方法でしょう。源平合戦に強くなるためには、例えばもし5人で行うとしたら自陣の分の50枚÷5で10枚を敵陣分の50枚÷5で10枚を併せて1人20枚を完璧にするのがポイントです。

皆で頑張るのがチーム戦ということになります。最初に決まり字を完璧にすることが求められるでしょう。札を捲っていき、順々に決まり字を言えるように何度も繰り返すことが大事です。

この時には、百人一首の内容および全文は覚えなくても大丈夫です。下の句の初めを見ることで、スピーディーに決まり字を言えるようになるまでやるのが適しています。もっと強くなるとしたら、どの札が何枚あるかも覚えなくてはいけません。

例えば、一枚札は『むすめふさほせ』であり、二枚札はうつしもゆ(うか うら つき つく しの しら もも もろ)といった具合です。『き』の札であれば、『きり』もしくは『きみがため は』、『きみがため を』の3枚があります。

要するに、最初に出た『き』の札が『きみがため は』だったとしたら、それまでは『きみがため を』だった決まり字は『きみ』に変わるでしょう。『き』の札が2枚読み終わった際には、残りの1枚は『き』の1文字で取ることができます。

この決まり字の変化に関してついていけるのであれば、源平合戦終盤での強さもアップできるのではないでしょうか。

どんな遊び方?百人一首の『坊主めくり』というゲームとは

ここでは、百人一首の『坊主めくり』という遊び方について詳しくご紹介していきたいと思います。『坊主めくり』は、絵札を使いまだ仮名が読めない小さな子供であっても遊べるのがポイントです。

読み手は不要であり、取り手は2人以上となっています。絵が描かれた方の札を使いますが、絵札をシャッフルし裏向きにして山積みにするのです。これを山札と呼びます。参加する人は山札を囲み丸く円を描くようにして座ります。

順番を決めて、参加者が順番に山札の中から1枚だけ札を取りましょう。絵札が殿(男性)だったなら、そのまま自分の手札とします。絵札が僧侶(坊主)であれば引いた人は自身の持っている手札をすべて捨て、捨てた札は山札の横に置きます。

絵札が女性(姫)なら、山札の横にある僧侶(坊主)を引いた人が捨てた札を全部もらうことが可能です。山札が全部なくなった際に、最も多く札を集めた人の勝利となります。この『坊主めくり』は、地方により色々なルールがある点がポイントです。

それについては、祖父や祖母が知っているかもしれないので、聞いてみるのも一案でしょう。例えば、女性(姫)の札を引いた場合に坊主の札を引いた人が捨てた札をもらうことができる他に、もう1枚引くことができるルールも存在し、両方適用になるという地方もあるとされています。

さらに捨て札がなければもう1枚引くというケースもあります。そして蝉丸のみを特別に扱うパターンもあるのを知っているでしょうか。蝉丸を引いたら1回休みであったり、蝉丸を引いた人はどれだけ札を集めていたとしてもビリが決まってしまうといったものです。

それだけでなく、蝉丸を引いた人は皆の手札をもらうことができる、蝉丸を引いた人以外の人皆の手札を捨てて、山札の横に置くというものもあります。ただしこの際には、最後の1枚が蝉丸ならば引いた人が負けです。

さて、山札には積み方があるのでその点についても知っておきましょう。山札は1つであり、100枚全てを1つに積みます。参加者に裏向きに順番に配って、自分用の山札を作ります。100枚を2つや3つなど複数に分け積みます。

1つめと2つめについては上から順に引いていきますが、3つめの山札複数ルールについては、自身の勘を頼りに山を選ぶことができる点が面白いかもしれません。山札を作ることなく伏せた札を円状に並べて、自由に選ぶ手段もあるとされています。

『坊主めくり』では、僧侶(坊主)の見分け方を知っておく必要があります。法師と僧正には12人いて、喜撰法師や僧正遍照(そうじょうへんじょう)、素性法師、恵慶法師、前大僧正行尊、能因法師、良暹法師、道因法師、俊恵法師、西行法師、寂蓮法師そして前大僧正慈円が該当します。

入道には法性寺入道前関白太政大臣や入道前太政大臣がいますが、入道については札のメーカー次第で殿の場合もありますし、坊主の場合もあります。名前が入道となっているため坊主ではあるものの、長い期間貴族として活躍していたことから、殿として描かれることがあるということです。

蝉丸は僧侶として活動していたと記録されていないため、殿になりますが『坊主めくり』においては頭巾を被っていたりその服装のせいもあってか、坊主の扱いとなることがあります。

楽しんでやってみよう!百人一首のゲームアプリをご紹介

百人一首のかるたを、アプリで気軽に楽しみたいという方もいるかもしれません。そういった方のために、百人一首かるたのアプリをご紹介していきたいと思います。まずはiPhoneやiPad向けのアプリについてです。

『競技かるた ONLINE』はNPC対戦やオンライン対戦、プライベートモードの3種から選んで遊ぶことができます。それに、暗記時間やから札などといった公式ルールに則っているので、大会に向けて練習するのにもおすすめです。

勝率もしくはお手付き率が記録されて、自分のプレイの分析も可能になっています。かるた遊びがとても好きな方に向いていて、知らない人が相手なら抵抗感があるというなら、NPC対戦かプライベートモードで遊ぶとよいでしょう。百人一首といいますか、競技かるたをされる方にもうってつけです。

『小倉百人一首(無料版)』は、百人一首の絵札を見ながら音読が聞けるというものとなっています。各歌の意味や解説についても書かれていて、1つ1つの歌の知識を深めていけるのがポイントです。

それに歌の修辞に関する説明もあるため、古文の勉強にもなるかもしれません。それだけでなく、歌に登場する風景もしくは植物といったものの写真が添えられているので、その歌の世界をしっかりと楽しめますし、どういった背景で詠まれた歌なのかが知れるため、歌の知識もインプットできるでしょう。

また、読み順や主題、どんな歌集に収められていたのか、決まり字といったものでの分類もできます。Google Playのアプリなら、『百人一首 簡単に暗記』があります。こちらは、百人一首を暗記することが目的となっています。

出題範囲や決まり字といった条件を指定し、百人一首の暗記ができるのです。出題形式は、上の句が表示されてその対となる下の句がどれかを、4択で選ぶようになっています。読み上げ機能はないものの、1文字ずつ表示するとなるべく読み上げに似た雰囲気によって練習ができるのです。

どこであっても手軽に百人一首の暗記ができる点が、魅力ではないでしょうか。力試しの機能では、百人一首の総合的な復習として百首全部がランダムで出題となります。最大で10回まで結果が端末に保存されて、これまでに間違えた部分だけ練習するということも可能です。

そして『ときめき!?かるた【百人一首ゲーム】』というアプリもあります。本格派志向な競技かるた(百人一首)のアプリでもあります。競技かるたのルールが再現されていて、最大50枚の札を使い持ち札を自陣の上中下段の3段に、自由に配置できます。

初心者であっても上級者でも対応しているのもポイントです。初心者からA級レベルまで設定でき、決まり字の表示モードも備わっています。読まれた札を、相手よりも早く取りましょう。先に自陣の札が無くなったなら勝ちです。

なるべく全日本かるた協会のルールに沿い作成されたので、普段の練習に適しているでしょう。この様に、色々と百人一首のアプリがありますので、気に入ったものを選んでみるのも一案です。

そもそもどうなの?百人一首とかるたの違いについて

ここで、百人一首とかるたの違いについて見ていきたいと思います。かるたと百人一首は、両方とも読み札と絵札の2種類に分かれていて、読まれた札を取るカードゲームである点は同じです。

百人一首もかるたの一種であり、百人一首が使われたかるたが『百人一首かるた』であり、いろは歌が使われたかるたを『いろはかるた』と言います。どちらとも似たような遊び方となっているものの、その点にこそ大きな違いがあることを知っておきましょう。

いるはかるたの場合は、絵札には読み札の内容が描かれた絵に加えてひだがなの初めの1字のみが書かれています。それに読み札についてはことわざなどといった短い文が書かれているのです。

そして文字札と読み札は46枚ずつあり文頭に関しては『いろは』順に並んでいます。百人一首は、藤原定家が撰んだとされる『小倉百人一首』が使われているのが特徴です。100人いる歌人の和歌が1つずつカードに書かれて、読み札には上の句が書かれており取り札に下の句が書かれています。

100枚あり、文などはいろは順にはなっていません。要するに、和歌が書かれているかどうかが、大きな違いということです。また、遊び方にも特徴があります。かるたの場合は、一般的な『かるた取り』という遊び方があり、その場に絵札を広げて置いて読み札を山のように重ねて置きます。

読み手が読み札を1枚ずつ読んでいって、それ以外の人はそれにマッチする絵札を探して取るのです。読み札が全部読まれた時に、絵札を最も取っていた人が勝ちとなります。続いて『逆かるた』は、読み札を広げ絵札を山に重ねます。

参加している皆が順々に山の絵札を引いていって、引いた絵札の読み札がどれなのかを探して取っていくという遊びです。山札が終わった際に、多くの取り札を取っていた人が勝ちとなります。

また、『よ~いドンかるた』というのもあるのを知っているでしょうか。これは壁や床に貼られた絵札を読み手が読み終えたなら、よ~いドンで一斉に取りに行くというものです。絵札を多く取った人の勝ちとなります。

通常のかるたとは一風変わった遊び方があるというのも、覚えておくと良いかもしれません。『よ~いドンかるた』などは、広い場所でも身体を動かしつつ遊べることから、子供たちの集まるパーティーや子供会などで行ってみるのも一案でしょう。

百人一首の遊び方に関しては、ちらし取りや競技かるたなど様々ありますが、他の記事で詳しく紹介していますので、ここでは詳細は割愛したいと思います。他の百人一首の遊び方の記事を読んでいただければ、通常のかるたとの違いが分かるのではないでしょうか。

かるたの起源について『カルタ』という名前は、カードの意味であるポルトガル語の『carta』が日本に伝わったとされています。それでも日本には、平安時代より『貝合わせ』という二枚の貝殻を合わせる遊びもあって、これが欧州のカードゲームと融合して元禄時代に今のような遊び方となったのです。

日本におけるかるたは、16世紀に今の福岡県大牟田市で作り始めたのが最初とされています。

知ってた?名探偵コナンにも百人一首が登場していた

人気アニメ『名探偵コナン』の劇場版である『から紅の恋歌』というのがありますが、こちらは百人一首が使われているミステリーであるのが特徴です。百人一首の和歌が、謎を解くカギとなるかもしれません。

『から紅』というのは、在原業平が詠んだ『ちはやぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがわ) 唐紅に 水くくるとは』の『唐紅に』から取っていると考えられます。唐紅とは深紅を意味し、句の内容は神々の時代の昔であっても聞いたことがない。龍田川が紅葉で深く鮮やかな赤に染められるとは、というものです。

在原業平は美男であり奔放さもある恋多き男でした。『伊勢物語』を書いたことでも知られています。また続いては、『忍ぶれど 色に出にけりわが恋は ものや思ふと人の問うまで』という句も名探偵コナンに登場しています。

『純黒の悪夢(ナイトメア)』という名探偵コナンの劇場版で、服部平次が最後に言った「忍ぶれどっちゅうわけか」でも使われているのです。この句に関してはポスターにも登場しました。平兼盛が詠んだものであり、誰にも言わず秘めていたけれど私が恋をしていることは他の人にも知られて、「恋をしているのか」と聞かれてしまった、というものです。

劇中では、服部平次の幼馴染である和葉が、自分の気持ちを表しているからという理由でかるたの得意札としていました。和葉は服部平次と両想いなのですが、それを彼女は知らないので少々切なさを感じさせるでしょう。

『忍ぶれど』の句は歌合せにおいて詠まれたのですが、好きな女性に贈る歌であるという前提で詠まれました。「あなたを想っている」と直球で言わずに、「私が恋をしていることを、周囲の人も知ってしまったのです」として、「私はあなたのことをこれほどに想っています」と暗に言っているのです。

現代でも、付き合いたての相手から「会いたいです」と直球でメールが来たならうれしいでしょう。しかし「夜空を見上げたら星がいっぱいだったから、あなたにも見せたいと思った」というメールをもらった場合でも、ときめくかもしれません。

ただ、名探偵コナンの服部平次の場合は、まだ和葉とは仲が良い段階であり告白もしていないので、和葉にこうしたメールを送ったとしても、想いは気づかれず届かない可能性があります。

名探偵コナン『から紅の恋歌』のポスターでは、『めぐりあひて 見しやそれともわかぬ間に
雲がくれにし夜半の月かな』という句の『くもかくれにしよはのつきかな』という一節が使われています。

紫式部の句であり、幼馴染に久しぶりに出会ったけれどすぐに帰ってしまった。あなたなのかどうかも分からないくらいの短い間であり、まるで雲の間に隠れてしまう月のように。という意味があります。

また、式子内親王の詠んだ『玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの弱りもぞする』という句の、『しのふることのよわりもそする』がポスターに使われています。私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ。生きながらえれば恋心を忍んでおけなくなるかもしれないから。という意味です。

ちなみに、玉の緒とは宝石等の玉を通す紐のことであり、魂と体を繋ぐものともされています。