それは何?まずは百人一首が何なのかの意味を知っておこう

百人一首は、百人の代表的な歌を各歌人ごとに一首ずつ選び集めた歌集となります。小倉百人一首がその代表的な歌集であり、藤原定家が飛鳥時代の天智天皇より鎌倉時代の順徳院に至るまでの代表的な百人の歌人(天皇や貴族、僧侶が大半)の歌を選んだものです。

藤原定家の『明月記』という日記では、百人一首は宇都宮頼綱(定家の息子である為家の妻の父)に依頼されたものであるとされています。襖の装飾のために色紙に書き綴ったのが、きっかけでもあるのです。

平安時代より百人の歌を歌集にすることが多く行われていたものの、『百人一首』という名称については、室町時代辺りより使われるようになったとされているのです。小倉百人一首の歌は、『古今集』から『続後撰集』までの勅撰和歌集の中より選りすぐったものを、大体詠まれた時代ごとに撰集したものです。

歌を内容ごとに分類した部立においては、恋に関するものが43首と圧倒的に多くなっていあす。続いてはどれにも分類されない『雑』が19首で、春夏秋冬それぞれの季節が題材になっている歌が数首ずつとなっています。

そのほかでは、羇旅(きりょ)という旅情を読んだ歌、離別を詠んだ歌もあるのです。歌人の内訳は、100人中79名が男性であり女性は21名となります。そして一首ごとに番号が付いていて、順々に新しい歌になるのです。

要するに、一首目が最も古くて百首目が最も新しいということになるでしょう。歌人については、貴族などが特に多かったのですが、猿丸太夫もしくは蝉丸といったどういった人物なのかがはっきりとしないような、伝説ともいえる歌人もいます。

それでも、平安時代以降の歌人の大体は生没年や家族関係そしてどんな経歴を辿っているのかという点から、その歌人がどの様な人物なのかも把握できると思います。ちなみに、藤原定家が歌を選定した際には、承久の乱において鎌倉幕府に敗れた後鳥羽院や順徳院の歌は撰ばれていなかったのです。

小倉百人一首を選定する際には、色々な政治面での配慮がなされていたのかもしれません。また現代の中学校や高校では、古典の入り口として百人一首を紹介して、和歌を暗記させているケースもあります。

それに筆者の場合になりますが、小学校3年生か4年生の頃に百人一首を授業で取り上げ、覚えさせられたという記憶があります。覚えるのはなかなかに面白いものです。そのため、皆さんも1度は百人一首に触れたことがあるのではないでしょうか。学校で取り上げるのは、それぞれの歌が5,7,5,7,7の和歌になっていることから、暗記しやすいということが挙げられます。

それだけでなく、正月にかるたとして遊びとして触れる機会のあるケースもあるからと考えられるでしょう。歌集として楽しむことも1つですが、かるたとして子供のうちから覚えて楽しみながら触れていくというのも、馴染みやすくなる理由となるかもしれません。

ぜひ、あなたも百人一首に親しんでみてください。