なぜ?百人一首は誰が何の理由で作ったのか

百人一首は藤原定家が宇都宮頼綱(定家の息子の妻の父親)に頼まれて歌を選んだ和歌集であることは、他の記事でもご紹介しています。百人一首の中で代表的な小倉百人一首は、後世になってから『小倉百人一首』と呼ばれるようになりました。

その前は『小倉山荘色紙和歌』と呼ばれていたのです。『小倉山荘』とは宇都宮頼綱の別荘を指します。また『色紙和歌』となっていますので、この百人一首は小倉山荘の襖を和歌の色紙で飾ることを目的として、藤原定家が依頼されたのです。

しかし、小倉山荘で歌を選んだという点に疑問を投げかける声もあります。藤原定家の『明月記』という日記に書かれている通り、宇都宮頼綱に頼まれ色紙を書いて送ったことは確かではあるものの、その前には帰京をしているためそうではなく京都にある自身の家で藤原定家は清書をした可能性が大いにあるとする意見もあるということです。

『小倉』という言葉が名前につくようになった点については、後世になり『新百人一首』や『後撰百人一首』といった数々の百人一首のパロディが生まれたことで、そういったものと区別する必要が出たためという点には、異議は唱えられていません。

『小倉』という言葉が百人一首につけられるようになった理由は、他の記事で詳細を紹介していきます。百人一首が成立するには、『百人秀歌』という歌集が関わっているとする見方があるのを知っているでしょうか。

これは国文学者の有吉保によって昭和29年に発見された歌集となっていて、101首の和歌が収録されています。その中の97首が百人一首にも選ばれているのです。有吉保は、藤原定家が『明月記』に書いた文暦2年5月27日の記述に即して、宇都宮頼綱の別荘の障子に貼るために、藤原定家に選歌を頼んでこの際に定家が選んだ歌の手控えもしくは目録ということで清書されたのが、『百人秀歌』になったという見解を示しています。

それから、後鳥羽院が崩御した延応元年(1239年)から藤原定家が亡くなる仁治二年(1241年)までの間に、後鳥羽院や順徳院の『百人秀歌』に収録されていなかった歌が加わる等の改編を経て『百人一首』になったと有吉保は考えているのです。

余談になりますが、藤原定家が依頼を受けて書いた色紙を『小倉山荘色紙』もしくは『小倉色紙』と言われます。色紙は大体縦が18センチで横が16センチ程度であり、現在も藤田美術館等に分けて所蔵中です。

さらに、百人一首がいつ誰がどの様にして選んだのかという点については、解説本に載っているでしょう。このことはとても大事ですし、知っておくことも必要となります。それでも、大まかな部分は良いとしても細かい部分は色々な説があり、今でも定説はないとされているのです。

百人一首を楽しむだけであれば、細かいところは気にせずに大まかな部分のみ把握しておくのも気楽かもしれません。百人一首は、作られた背景を知りながらそのうえで気軽に楽しむのが一番だということです。