検証!百人一首が普及していった謎を解き明かそう

百人一首は、成立に関して色々と謎がありますが、百人一首が普及していったのは宗祇(そうぎ)という室町時代の連歌師が重要な役割を担ったとされています。百人一首の選者である藤原定家の家は代々受け継がれてきた和歌の名門であり、『御子左家』と呼ばれました。

ところが、この『御子左家』は藤原定家の息子である為家の次の代で、冷泉家や京極家、二条家の三家に分裂してしまったのです。東胤行(とうたねゆき)という人が藤原為家に和歌を習って、その娘婿(要するに為家の娘の婿)になり二条流の歌人として知られたものの、宗祇は東胤行の子孫の東常縁(とうつねより)百人一首を伝授されました。

宗祇の頃には二条家は断絶してしまいましたが、国文学者である吉海直人によると、宗祇は二条家の系譜に繋がる東常縁から教えられたことを自分の権威となるようにし、その道筋において百人一首を要するに二条家に伝わる聖典のような位置づけにまで上昇させたという見解を示しています。

宗祇は、自身の弟子たちに百人一首について講義をして伝えていきました。それと時を同じくして、百人一首は『三部抄』に収録されます。これは二条流歌道の入門書でした。このことで、百人一首は和歌の入門書ということで広く知られていくようになったのです。

そして百人一首は、どの様な過程を経てかるたになったのかも気になるところではないでしょうか。それについて吉海直人は、はじめのうちはゲームというのではなく、和歌の暗記カードもしくはただ見るためだけのものであった可能性があるとしています。

和歌の入門書であった百人一首が和歌を暗記するためのカードとなりかるたへと変化した、というのはあり得ることであり、面白みがあるでしょう。それに吉海直人は、江戸時代の寺子屋で読み書きの教科書として百人一首を使っていた点にも着目していて、女性の教養となっていたことで、かるた取りの遊びとして広まったのではないかと推測しています。

藤原定家が百人一首を選んだ京都の嵯峨野の場には、現在歌碑が建てられています。それには『権中納言 定家 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ』と書かれています。

この歌碑は、『時雨殿』という百人一首のバラエティに富んだ世界観を味わうことができるミュージアムに屋外展示施設として建ったものです。最近では百人一首に興味を持つ若い世代の方も増えているようですので、こうした場所を訪れてみるのも一案かもしれません。

ちなみに、平成14年度における小倉百人一首の普及具合は、全日本かるた協会会員名簿によると理事を含め2153名となっています。その数値は、前年の平成13年よりも29名増加しているのです。

戦前より中心として栄えてきた東京都は、会員数が最も多く423名となっています。西側の中心として競技者を多く輩出していた大阪の場合は、全国の中で5番目の137名でした。2位は福井県で3位は静岡県だったのです。