そうだったの?百人一首に『小倉』が冠される理由について

百人一首に『小倉』がついた理由を見ていきましょう。小倉というと『あんこ』を思い浮かべる方もいるでしょう。あんことかるたの関連性について不思議に思うこともあるかもしれません。これについては、こしあんに蜂蜜漬けとなった小豆を混ぜたものが、鹿の子まだら模様に見えるので、鹿から紅葉が連想されて、それに加えて小倉山が紅葉の名所ということもあり『小倉あん』という名がついたとされています。

百人一首には『奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき』という歌があります。この様に、鹿と紅葉は関連性があるのです。さらに『小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆき待たなむ』という歌も存在し紅葉と小倉山の接点も分かるでしょう。

百人一首は京都嵯峨野にある宇都宮頼綱の別荘の襖を飾るために、藤原定家に選ばせたとされていることは他の記事でご紹介しています。百人一首が誕生した当時は一定の呼び方はされておらず、『小倉山荘色紙和歌』や『嵯峨山荘色紙和歌』、『小倉色紙』などと呼ばれていました。

後になって、藤原定家が前述の小倉山で百人一首を編纂したことで、『小倉百人一首』という呼び方も定着していったのです。藤原定家が宇都宮頼綱に送った小倉色紙は、一部が宇都宮頼綱の子孫に受け継がれたとされています。

室町時代に茶道が広まったということで、小倉色紙を飾ることが流行り、貴重なものとされたのでした。戦国時代の武将である城井鎮房が豊臣秀吉の配下である黒田長政されて一族が滅ぼされます。

それは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わっていた『小倉色紙』を提出することを秀吉に求められた際に、それを拒否した点も要因に含まれるという話があるのです。この小倉色紙は、大変に貴重なものとされたことから価格もはねあがったのでした。

そうしたこともあり、ニセモノも多く出回ったとされています。要するに、宇都宮頼綱の持っていた小倉山にある別荘で藤原定家が百人一首の百首を選んだために、その『小倉山』からとって『小倉百人一首』という名称で呼ばれるようになったということです。

ですので、公家である宇都宮頼綱の個人的な一存により藤原定家が編纂し、後世にまでかるたとして残り、今でも親しまれていることになります。このことは、天国の宇都宮頼綱も編纂を依頼された藤原定家だって当時は思いもしなかったのではないでしょうか。

余談ですが、藤原定家は平安時代だった1162年に、歌人の藤原俊成の次男として生まれています。子供の頃から和歌の教育を受け育ったのでした。青年期には源平合戦(本物の戦の)を経験していますが、和歌の創作に打ち込んでいます。

歌を詠む人であれば穏やかな人なのだろうと想像するかもしれませんが、藤原定家の場合は激しい気性の持ち主であったと考えられ、若い頃には自身を侮辱してきた公家を殴ったという逸話もあるのです。

和歌に対しては妥協せずに、技巧を凝らした難解な和歌が多いとされています。